全日本カートチャンピオンから全日本F3000選手権チャンピオンに
中嶋悟を筆頭に多くの日本人ドライバーがF1レースにチャレンジしてきましたが、表彰台に上がったのは3名しかいません。その中で日本人として初めて(アジア人としても初)F1レースで3位入賞を果たし、表彰台に上がったのが鈴木亜久里です。
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レーシングカートのチャンピオンがF3000チャンピオンにのし上がる
父・正士氏の影響で12歳(1972年)からレーシングカートのレースにデビューした鈴木亜久里だが、順調に実績を重ね1978年と1981年に全日本カート選手権のA2クラスチャンピオンを獲得します。当時の正士氏は非常にスパルタで鈴木亜久里が反抗すると工具はおろか、駆動用のチェーンを投げつける姿がたびたび目撃されています。
しかし正士氏が当時のトップドライバーである浮谷東次郎、生沢徹や本田宗一郎の息子である本田博俊らと交友があったことから鈴木亜久里のレース環境は抜群に良かったようです。
その後1979年から全日本F3選手権に参戦、日産ワークスドライバーとしてグループAやグループCマシンを駆り、1986年にはル・マン24時間レースにも挑戦しています。
1986年の全日本F2選手権最終戦に松浦賢や由良拓也の後押しでムーンクラフトのシートを獲得。翌1987年からスタートした全日本F3000選手権には運送会社であるフットワークから潤沢な資金を得ることができ総合2位となり、1988年には待望のシリーズチャンピオンに輝き、名実ともに日本の頂点ドライバーにのし上がりました。
波乱万丈だったF1ドライバー時代の鈴木亜久里
1988年日本GPにラルースからF1レースにデビューした鈴木亜久里だが、F1ドライバーとしての戦歴は波乱万丈に満ちたものでした。
1989年にザクスピードチームのレギュラードライバーとなった鈴木亜久里でしたが、マシンの戦闘力不足やヤマハエンジンのパワー不足に悩まされ、シーズン16戦全てのレースにおいて予備予選落ちという前代未聞の記録を残しています。
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1990年はラルースチームに移籍。ローラ製シャシー+ランボルギーニエンジンは昨年とは打って変わって戦闘力が高く、イギリスGPとスペインGPで6位入賞を果たし、鈴鹿サーキットで開催された日本GPにおいてファステストラップを記録するなど大活躍し見事3位に入賞、日本人初F1レース表彰台を獲得しました(アジア人としても初表彰台)。
その後、2004年に佐藤琢磨が、2012年に小林可夢偉がそれぞれ3位入賞していますが、未だに日本人最高位は保ち続けています。
1991年はラルースチームに留まったものの、チームのごたごたもあり1度の6位入賞で終了。1992~93年はかつてのスポンサーであったフットワークチームに移籍するも2年間で1度も入賞することなく93年終了とともにシートを失ってしまいます。
1994年と1995年はスポット参戦や無限エンジンとのバーター契約などでなんとかF1ドライバーとしての地位を保ったものの、95年日本GP予選中のクラッシュを最後にF1から引退しています。
ドライバーとして紆余曲折な時代を過ごした鈴木亜久里でしたが引退後に自身の名を冠したチームを運営するようになってからも波乱万丈でした。
特に2006年からF1に参戦したスーパーアグリF1チームでは資金不足に悩まされ続け、スポンサーの資金未払い問題も噴出、ばんせい山丸証券に起こされた訴訟に敗訴するなど常に問題を抱えながらF1から撤退しています。
改めて振り返ると1990年日本GPでの3位入賞日本人初F1レース表彰台がいかに凄いことなのかが分かります。それだけF1レースの表彰台には重みがあり、偉大なことなのでしょう。
鈴木亜久里が陽、同時期にF1レースに参戦していた中嶋悟が陰のドライバーと当時は言われていましたが、その後のチームオーナー人生も現役時代から引き継いでいるようです。今後もどのような活躍を見せてくれるのか注目ですね。